亡くなった人の弔い方 その大切さを僕達は伝えていかなくてはいけないんだ。

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いやいや寒くなってきました。朝布団から抜け出すのが困難になってきたと思う石屋のけんすけこと清水健介です。

先日、NHKで放送された「ドキュメント72時間」という番組を録画していたので見たのですがその中で非常に大切なことに気づかされました。番組は同じ場所を3日間撮影しつづけてそこに見え隠れする人間模様を放送するというものです。

今回は長崎の“花火屋さん”です。

花火っていうと僕らには夏祭りのようなイメージがあります。ですが長崎ではお盆の時にお墓や精霊船を引きながら花火や爆竹を使い死者への弔いを行うということでした。

よくニュースで中国の旧正月に爆竹を鳴らしている映像をみかけると思いますが、長崎では中国などの大陸の影響が色濃く反映されており

爆竹によって邪気を払う

という意味があるようです。

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何百なんてものではなく何万発単位で鳴らす

これは中国の花火屋さんですが、長崎ではこのような花火の他にも我々がよく使っている打ち上げ花火・手持ち花火のようなものも多く売っていました。その数は数百種類でしょう。

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花火屋さんに来る方々の想いが刻銘に映像として映されていました。新盆には亡き人のために精霊船を作り、爆竹花火を鳴らし死者を弔う。この地域に昔から続く伝統なんだろうな。そして僕は今までこの番組を見るまでこの風習を知らなかったわけです…。

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故人一人一人のために精霊船を作っていた

皆さん口をそろえて言うのは故人への感謝と自分達が弔いたいという意志でした。

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爆竹 花火の後

母も喜んでいてくれていると思います。

そう言った若者の顔が忘れられません。

100歳まで生きた重み

先日の埋葬での出来事。亡くなった方は100歳のおばあちゃんでした。僕の手におさまっている骨壺には色々な時代を見続けてきた方が入っています。

僕は何と言っていいのかわからないような気持ちがこみ上げてきました。

100歳というと1916年ごろ大正5年の生まれになります。芥川龍之介が「羅生門」を書いたのが1915年なのでそんな時代だったのかと想いを馳せます。

1923年には関東大震災、1926年には年号が変わり昭和へ。その後日本は戦争へ突入 1945年が終戦なのでおばあちゃんの若い時はずっと戦時中だったことになります。

日本の移り変わりをどうおばあちゃんは見てきたのだろう。

今のように発言も自由にできはしないし、女性には地位も認められていなかった。

そんなことを思いながら納骨前に皆さんにお骨甕を触っていただき最期のお別れをしていただきました。

あやかりたい。

と参列者の方々が皆さん言っておられ、最後ぎゅっとお骨甕を抱きしめておられたのが印象的でした。

ドキュメント72時間で見た花火で弔うあのお盆の光景は本当に地域色豊かでその土地に根付いたもの。長崎ではずっと前の先人から受け継がれていたものを大切にしています。

一方、東京では地域での風習が失われたり、簡素化する中でそれに歯止めをかけるということはできません。東京は大都市です。横のつながりが本当に希薄になってきています。ゆうぱっくでお骨を郵送して埋葬してしまう時代になってきています。

だからこそ、僕たちは故人を納骨する役割を担っているからこそ、命の重み・生きてきた証などを参列者の方々が感じていただけるようにすることが使命なのだと思いました。

それではまた。

この記事を書いた人

清水 健介
清水 健介この記事を書いた人
創業明治10年東京都上板橋の石材店清水屋5代目社長の清水健介です。令和元年に5代目就任。学生時代からやってきた納骨回数は2000回を超える。お墓、石のことなら何なりとご相談をいただければと思います!お墓を作ったはいいけど、コケだらけなんか嫌!“また会いに行きたくなるお墓つくり”を提案しています。髪がくるくるしているけどパーマじゃない。これは無料パーマだといいつづけている。全国石製品協同組合 理事、東京都石材業政治連盟 幹事長。
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